人物 さ行

酒井忠尚(さかい ただひさ)?-?

 戦国時代の武士。松平氏につかえた酒井忠次の一族。天文9年(1540)三河上野城主となり、松平(徳川)広忠・家康につかえる。永禄6年三河一向一揆にくわわり家康にそむく。のち家康軍に攻められ駿河にのがれた。

佐久間信盛(さくまのぶもり)?-1581

 織田信秀につかえ、織田信長の重臣となる。長篠の戦い、比叡山の焼打ち、三方ヶ原の戦い、朝倉氏の征討等の主要な戦いに参戦し功があった。
 天正4年からの石山本願寺攻めで総大将となるが、8年その無策をとがめられ、高野山に追放された。

佐々木兄弟(ささききょうだい)・佐々木盛綱(ささき もりつな)1157-?

 祖の佐々木秀義は保元、平治の乱で源義朝に属して戦います。平治の乱での敗北により藤原秀衡を頼って落ち延びる中、相模国の渋谷重国に呼ばれ庇護を受けます。
 秀義の4人の子、定綱、経高、盛綱、高綱は伊豆に配流されていた頼朝に家人として仕えました。頼朝挙兵時に4兄弟はそれに応じ活躍し、本領であった近江を始め17ヵ国の守護に補されます。

佐竹氏(さたけし)

 八幡太郎義家の弟・源義光が常陸介となり、その孫昌義が常陸久慈郡佐竹郷に土着し、佐竹を称したのに始まる。
 昌義の次子隆義は平家の恩顧を受けた関係から源頼朝に対抗した。
鎌倉幕府滅亡後は足利氏に属して常陸守護職に補任され勢力を回復。戦国時代には常陸国・下野国から陸奥国まで勢力をのばし、北関東最大の大名として後北条氏や伊達氏と争った。
 豊臣秀吉からは水戸54万石を安堵されたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したことで慶長7年(1602)に秋田20万石に減封された。戊辰戦争では官軍に属し、維新後は侯爵に列せられた。

佐竹隆義(さたけ たかよし)1118-1183

 佐竹昌義と藤原秀衡の娘の子。平氏に属し、平清盛の取次によって縦五位常陸介になり、頼朝挙兵以降も京に留まっていた。
 富士川の戦いの跡、頼朝は佐竹氏の脅威のため平氏追討を断念。頼朝は金砂城(茨城県)の一族を攻め、佐竹氏旧領を伊賀光季の一族や宇佐美氏などに分与した。平氏が都落ちした後も、頼朝は陸奥の藤原秀衡、常陸の隆義の存在を理由に上洛しなかった。

佐竹義政(さたけ よしまさ)?-1180

 弟の隆義とともに保元・平治の乱は平清盛に属して戦い、常陸七郡を領したという。
富士川の戦い後、佐竹氏の脅威を理由に平氏追討を断念した頼朝は、佐竹氏征伐のために常陸国府(現石岡市総社)進軍。義政は縁者であった上総広常を通じて降伏を申し出て広常と面会したが、討たれてしまった。なお、弟昌義の子・秀義は金砂城に籠った。

佐奈田与一(さなた よいち)1155-1180

 岡崎義美の嫡男。
1180年8月17日、父・義美ととも源頼朝の挙兵に応じ山木兼隆館襲撃に加わる。
石橋山の戦いでは先陣を務める。敵の俣野景久(大庭景親の弟)と組みあい、刀を抜こうとするが先に斬った者の血が鞘にこびりつき、刀が抜けずに打ち死にした。
 1190年正月、頼朝は三嶋、箱根、伊豆山参詣の帰りに、石橋山の与一の墓に立ち寄り涙を流したといいます。

佐奈田与一の墓与一塚(神奈川県小田原市)

静御前?-?

源義経の側室。母は磯禅師。もと白拍子。義経の京都退去に従ったが吉野山中で別れ、捕らえられた。鎌倉鶴岡八幡宮で、義経を恋う「しずやしず」の歌を舞って人々を感動させた。

しずか



               鶴岡八幡宮▶

志田(源)義弘(しだ(みなもと) よしひろ)?-1184

 源為義の3男。本拠は常陸(茨城県)信太郷。源頼朝と対立し、1183年足利多田綱人とともに挙兵したが、小山朝の奇襲に敗れた。
 以後、木曽(源)義仲を頼ります。義仲の敗死により伊勢(三重県)に逃れたが討ち死に。

斯波氏(しばうじ)

 鎌倉・室町時代の豪族で,室町幕府の三管領家の一つ。足利氏の支流。
祖足利家氏が陸奥斯波郡に下って斯波氏を称す。その曽孫高経は足利尊氏に従い越前・若狭の守護となり,その子義将 (よしまさ) が管領となって以後三管領の一つとなって権勢をふるった。
 のち義廉 (よしかど) ・義敏の家督争いは応仁の乱の一因となった。乱後は分国の越前は朝倉氏,遠江 (とおとうみ) は今川氏,尾張は織田氏らの守護代に奪われ,1561年織田信長に追われて滅んだ。

慈円(じえん)1155-1225

 九条兼実の弟。兼実の尽力により順調な昇進を遂げ、1192年権僧正、天台座主、護持僧となった。
1196年源通親のため一旦座主の地位を追われたが、1201年再び座主となって以来、4度座主となった。
 慈円が記した「愚管抄」は中世日本の最も重要な歴史書と評価されている。

上西門院(じょうさいもんいん)1126―1189

鳥羽(とば)天皇の第二皇女統子(とうし)内親王の院号。

城助職(城長茂(じょう ながもち)?-1201

 1181年6月に1万の軍勢を率いて信濃国に進軍し、横田河原(長野市)で木曽(源)義仲と戦いますが敗北。同年8月越後守に任命されますが、越後に侵攻した鎌倉方の軍勢に捕らえられ囚人として鎌倉に送られます。
 頼朝から奥州征伐に参陣することを許され、その後御家人になったといわれます。
頼朝没後の1201年1月、鎌倉幕府打倒を企て京で挙兵するが失敗し2月に討たれる。

崇徳天皇(すとくてんのう)1119-1164

 平安後期の天皇。鳥羽天皇の子。後白河天皇の兄。
1123年即位したが,鳥羽上皇により近衛(このえ)天皇へ譲位をしいられ,1141年退位して上皇となり新院と称した。近衛天皇死後も自分の子重仁(しげひと)の即位は実現せず,後白河天皇が即位した。この不満から1156年保元の乱を起こしたが敗れて讃岐(さぬき)に流され配所で没したが,その怨念で怨霊になったと世人に恐れられた。

関口氏純(せきぐち うじずみ)?-?

 今川氏最盛期を築いた義元の重臣。
今川氏に仕える瀬名氏の3代目・瀬名氏俊(うじとし)の弟とされ、同じく今川氏の重臣・関口氏の養子となったとされます。
 今川義元の妹もしくは伯母とされる女性を妻とし、駿河国・瀬名館に住み、この地で娘を授かりました。瀬名館で誕生したことから「瀬名姫」と呼ばれた彼女は、後の家康の正妻「築山殿」です。
 氏純は持舟城主となり、「桶狭間の戦い」で今川義元が敗れた後も、今川側へ留まり、衰退していく今川氏を支えました。しかし、家康との内通を疑われ、氏純は妻・巴とともに自害に追い込まれたといわれています。

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